「現象とは何か」マルク・リシール論文読解

「現象とは何か」マルク・リシール論文読解

概要

« Qu’est-ce qu’un phénomène ? », Les Etudes Philosophiques – n°4 : Le Phénoménal et sa tradition – Oct. – déc. 1998 – P.U.F. – Paris – déc. 1998 – pp. 435-449

題名は「現象学とは何か」。1998年の論文。フッサールの草稿の一部分を辿りながら、現象概念の拡張を狙った論文。現象の性質を「点滅」として位置づける。

 しっかりと章立てしてまとめられた論文ではない。どちらかというと注釈に近い。フッサールの草稿を解釈し直すが、全体として「現象とは何か」という問いのために構想されたものではないと思う。ただし、フッサールが超越論的自我と心理学的自我の合致と区別を語っているところのリシール的解釈が本論文の肝となるだろう。

内容

現象という概念の一般的な意味(段落1−3)

 現象とは何か、と問う準備段階として、リシールはハイデガーにおける現象概念(『存在と時間』§7)をとりあげる。そこでは現象が「存在あるいは存在の意味の事象性〈Sachlichkeit〉」として語られていた。つまり、ハイデガー的な意味での現象は存在に結び付けられており、それは「存在が問われることのない象徴制度」「哲学の象徴制度」だということである。しかし、リシールの現象学においては、現象が必然的に存在者の存在に結びつくことはない。現象学はその意味で「プロト存在論的」なものであり、現象学的エポケーというのは存在のエポケー、存在者の存在のエポケーだということである。

 リシール的な現象学はその意味で非哲学であり、彼のいう現象は無垢な生とじかに接する錯覚〈illusion〉を伴い展開する。ハイデガーの現存在分析における非本来的な日常性の分析にせよ、そこから発展したハイデガーの後期思想にせよ、このような無垢な生や錯覚を取り上げていない。そういうわけで存在論の現象概念は採用しない。それよりもフッサールが発見した「現象」概念に着目することで論を進めていく。

フッサール読解(4ー31)

 一般的に自明なことだが、フッサールもハイデガーもよく似た構造を持っている。超越論的間主観性や現存在といった人間存在への着目がそうである。さらにその現象としての原的な発生である時間化〈temporalisation〉という考えも似ている。そう考えると、フッサールに着目する理由はないと思われるが、リシールはハイデガーにないフッサールの反省性などの分析に着目することでフッサールを読み替えていく。

 この論文で扱われるフッサールの論考は、フッサリアーナ15巻に収録されている番号31 §8のテキスト「新たな始まりーー心と超越論的意識。他者の構成。素朴な認識問題と超越論的還元の動機」(邦訳あり)の最初の数段落である。とりわけリシールは超越論的自我と現象学的自我の差(具体と抽象の差)の言及に着目する。

 フッサール読解において最初に重要なことを述べている。曰く、フッサール現象学はハイデガーやハイデガー主義者達が批判したような現前〈Vorhandensein〉の哲学ではないということである。生には現在だけでなく、過去や未来的な生も含まれている。フッサールをこのように肯定的に扱うのはメルロ=ポンティ的である。そして、世界というのは存在の意味、つまり超越論的な構成する生の存在の意味である。構成する超越論的主体と構成される世界という構図は、フッサール現象学に対する一般的な見方を踏襲している。

 「それゆえフッサールにしてみれば、現象とは世界を構成する超越論的な生なのである」(7)。七段落目でいきなり現象概念が定義されるが、後半では現象とは体験のことだとも語られる。またこの(意識の普遍的な)生はそこで存在の意味が構成される場〈lieu〉のようなものだともいう。要するに現象ということでリシールは超越論的な体験全体のことを考えているとみてよいだろう。

 ここまでは一般的なフッサール現象学の枠組みの説明である。そしてリシールは、このような意識の普遍的な生において、つまりフッサール的なコギトの中に、存在の意味から切り離せるもの、すなわち世界の外部は存在するのか、という問いを立てる(12)。フッサール現象学だと原ドクサ〈Urdoxa〉などの概念がそれを覆い隠しており、ハイデガーの哲学に接近してしまう。というわけで「世界の外部は存在するのか」と問いを立てるのが、メルロ=ポンティのキアスム概念を出した後はこの議論を発展させない。この問いはこの論文ではこれ以上問われない。

 次に超越論的心理主義の問題に移る。この問題がこの論文の主題となる。それは超越論的意識(内在)と心的意識(内在)は区別できるか(13)という問題である。この草稿が書かれたのが1933年であり、よくこの問題をフッサールが問うていた時期である。さて、「我あり」には二つある。一つ目が超越論的な「我あり」である。つまり構成者としての「我あり」である(前者)。構成者としての我はいつも世界を持っているが、構成者と世界の間にはいつも隔たりがある。二つ目が現象の中での「我あり」であり、いわば心的な「我あり」である(後者)。その場合、その我は身体〈Leib〉を持ち、世界の中に組み込まれている。 

 二つの我についてフッサールの草稿を辿りながら様々な角度(目的論、身体、時間性)から論じたあと、その超越論的心理主義の問題に移る。区別できるかという問いには、しかしながらパラドクスが存在し、フッサールによれば超越論的内在と心理学的内在は合致してしまうという(20)。

 というわけでフッサールは超越論的心理主義の問題にどハマりしている。これは超越論的錯覚である。つまり超越論的なものは「現象の現象学的具体性から抽出された部分具体性そのものを混同しているという点において」(21)超越論的錯覚から切り離せないのである。この混同は両者が同一である(合致している)という混同であり、この同一化を前提としていることで抽象化も可能となる。それを理解した上で、フッサールの草稿を追う必要がある。

 この超越論的主観性と心的自我との合致(一致)に関するリシールが最も重要視したフッサールの草稿の箇所を引用しておこう。とりわけ後半が肝である。

 さしあたり奇妙な仕方ではあるが、この絶対的に具体的な超越論的主観性は人間としての心的な自我と完全な一致を見せる。つまり「純粋」自我として現象学的還元を行使する私との一致を見せるのだ。ただしこの純粋性は世界における抽象であり、いっさいの心理物理的なものからの抽象を通して獲得される。自然な態度への遡行においても私は私の超越論的存在を純粋に心的な固有存在と必然的に同一であるものとして見いだす。世界における一つの不合理とは、同時に具体的でありうるような抽象体であるが、この抽象体はその明証的な矛盾をつぎのような形式において消失させる。その形式とは、世界にかかわる抽象的なものが、現象学的還元を通して、世界に関わる抽象的なものに向かって超越論的な仕方で成長した心理物理的な具体相から解放されねばならない、ということである。しかしこの超越論的自我がみずからを具体の中で存在妥当へともたらすことで、ある新たな超越論的な妥当性の意識が生じるが、この意識はふたたび一挙に客観化され、私の人間としての自我のあらたな心的行為として世界現象へと組み込まれる。したがって自然な態度へと戻ることで私が述べうるのは、ここに座っている私である自我が、たったいま現象学的還元を遂行したのであり、そこで超越論的自己認識を獲得し、この自己認識を私はいまだ継続する習慣的な妥当性の内に所持しているということであり、私はこの世界における現象学研究者である等々といったことである。

『間主観性の現象学 その方法』434−435頁(適宜訳語を変更した)

 ここで語られているのは、最初に(自然的態度における)超越論的自我(具体)と心的自我(抽象)の一致が語られるが、それが還元を通して区別(開放)され、そこから自然的態度に戻るとさきほど(たったいま)の還元を遂行したことで事後的に、区別が理解できるが、それは事後的なものででしかないというようなことである。リシールはこの即座に「心的行為として世界現象へと組み込まれる」ことに注目する。これは超越論的具体と心的抽象の合致ではなく、非合致を表しているのだ。このことをリシールは「現象は点滅の中で現象化するものとして示され、現象の現象化は現象の点滅として現出する」(24)と表現する。点滅がキーワードである。

 抽象についてもう一度語っておくと、抽象とは理念形相的なものである。抽象的還元(26)によって心理学的抽象が生じるが、それはすでに超越論的錯覚によって現象が曇らされていることを意味する(超越論的主観性は心的な自我のような世界の中心ではない)。

あらゆる問題は「超越論的成長〈croissance transcendantale〉」(28)とは何かということである。リシールの解釈によれば、この超越論的成長は自然発生的〈spontanément〉で盲目的〈aveugle〉で匿名的〈anonyme〉である。そこでは人ははっと我を忘れた状態になり、超越論的成長は、すぐに世界現象へと組み込まれるがゆえに自己合致が不可能である。それゆえ探究は現象学的ジグザグ(28)になる。

 それゆえ、超越論的自我と心的自我が同一化されるにしても即座に欠如〈defaut〉するようにして同一化されるということがフッサールの草稿から読み取れる。それは「抽象と具体の間の恒常的な非合致」(29)の問題である。この非合致によって具体の性質も明らかとなる。「具体は、超越論的現象学的な仕方で、抽象を介してただ心理学的なもののようにのみ見えるものの中に増大的〈en croissance〉に入り込んでくる。言い換えれば、この具体は、抽象が遂行されるのを背景とした意味の現象学的内容〈teneur〉である。あるいは抽象的心理学的内容が依存的契機であるところの現象学的全体である」(29)。これをさらに言い換えると、現象学的内容(具体)は抽象と完全に同一化はしないということである。現象学的還元はダイナミックな仕方で具体・現象学的具体全体と心理学的抽象を区別する。同一化は形相的還元による論理形相的な同一化であり、そこでは体験がエイドスによって切り縮められている(30)。

まとめ:現象と現象化(31−33)

 現象学的内容はまた言語的意味〈signifikcation〉の同一性も持たない。それゆえ現象学的内容は「つかのまの、未規定で、起動相的で、把捉不可能な何か」である。これはフッサールが1910年の『現象学の根本問題』で語った「体験自体は与えられない」という言葉の意味である。唯一与えられるのは、心理学的な、あるいは心理学的論理形相的な同一性だけである(31)。

 しかし、フッサールにとって、現象学的匿名的な成長は存在意味の現象学的成長のことである。この成長の中で現象化が生じるのであるが、この現象化とはフッサールの文脈でいうと「ある新たな超越論的な妥当の意識」のことである。この「新たな」というところに次の意味に開かれた現象学的内容が存在し、それは体験され沈殿してゆく。曰く、「現象学的意味とは、そこにあると言えると同時に、まったくそこにはなく、より遠くまでいく必要があるということを感じること」(32)なのである。

 だからこそ、現象は新たに陰り〈eclipser〉を伴って出現する。内容の発生の瞬間(驚きの瞬間)はすぐに過ぎ去り、沈殿していき、心理学的なものとなってしまう。つまり「現象がその超越論的現象学的内容の中で生じるのは陰りにおいて揺れ動き、点滅することによってなのである。ーーまるで星々が点滅するかのように」(33)(正直ピンとこない比喩である)。

 結末の文章は次のようになっている。

フッサールにおいては、現象(以外の何者でもない現象)は、その増大の中で自生する(自我の、世界の)存在意味である。しかし、さらに遠くまでその領野から溢れ出るものである、現象以外のなにものでもない現象の現象性の意味は、哲学的言語においてはその意味が言語と対になるにもかかわらず、どんな存在意味よりも広大で、アプリオリに自己同一化せず、そこに切り縮められることもないのである。

(33)p. 449

 フッサールを超えて、というようなニュアンスを醸し出しながら、論を終えている。

考察・読解

 あまり面白いことは言っていないように思える。そうではあるが、フッサールの草稿のある一部分を取り出して、そこにリシール的な現象概念を確認する作業がやたらと長いので極めて難解である(いつものことだが)。ただし要点は比較的分かりやすいと思われる。要するに、いかに同一化といえども完全な同一化などありえず、現象学的還元を施したあとでは、そこに新鮮な意味が、新たな意味が盲目的に匿名的に吹き込まれるということだ。だからこそ、その前後は非合致となる。主眼はこれであるが、フッサールを注釈しながら思ったことを色々と述べているようである。

 非合致ではあるが、そこに新たな現象学的意味が吹き込まれている。その現象のあり方が点滅〈clignotement〉である。点滅はかなり初期の頃から好んで使用している概念である。なぜ点滅かというと、持続しないからであり、すぐに心理学的形相に取り込まれたり、時間化したりする(時間として流れていく)からである。

 細かい解釈に関しては難解すぎて理解できないし、そもそも理解するのにそれほど意味があるのか分からない。ただし疑問点もある。「還元すればするほど贈与がなくなる」(31)はジャン・リュック=マリオンへのあてこすりであるが、「現象学的意味とは、そこにあると言えると同時に、まったくそこにはなく、より遠くまでいく必要があるということを感じること(sentir (fühlen) que oui on dit ça, mais en même temps ce n’est pas tout à fait ça, il faut aller plus loin)」(32)は何からの引用なのだろう。ドイツ語があるのでフッサールか何かなのか。あるいはメルロ=ポンティだろうか。

※ ()内数字は段落番号。

参考文献

エトムント・フッサール『間主観性の現象学 その方法』浜渦辰二/山口一郎監訳、ちくま学芸文庫、2012年、432−444頁。

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