具体的なものへの投錨 ––『マルク・リシール現象学入門』【書評】

具体的なものへの投錨 ––『マルク・リシール現象学入門』【書評】

 ところで、その人と作品に慣れ親しんだすべての人たちと同じように、私はこの哲学者が実践する思索の二つの境位の、調和にあふれた差異に驚嘆したものである。言うなれば、書き物と発言の調和にあふれた差異である。彼の著作が何よりも、概念的に極めて高度な専門性に裏打ちされているとするなら、精彩を放つその発言は、おなじくらい具体的なものへの投錨を物語っている。 『マルク・リシール現象学入門』(サシャ・カールソンの序言)

入門書ではない入門書:難解なマルク・リシール哲学

 本書はマルク・リシールの23冊目の著作だ。晩年の作品であるこの書物の原題は『隔たりと無』で、実のところリシールが自らの入門書を書いたわけではない。難解といわれる彼の思想を「できるかぎり公にするために」企画されたサシャ・カールソンとの対話を記録して文字に起こしたものだ。邦訳は二段組364頁という大分量であるが、それを4日間で「特定の書物を借りずに」対話するというその両者の圧倒的な教養の深さには、ただただ圧倒されるばかりである。

 『入門』という題は、もちろんこの書物にある二重の入門的性格「リシールによる現象学入門」と「リシール現象学への入門」を考慮してつけられたものだが、実際のところ「入門書」として読めるかどうかは怪しい。読んでみたら、ほとんどの人がこの書物の入門的でない性質に気づくはずだ。象徴制度、誇張的エポケー、建築術的還元、現象学的図式機能、現在なき現前・・・なるほど、これらの用語はすべてリシールによって説明されている。しかし入門的な解説とはなっていない。丹念に説明されているとはいえ、カールソン自身が何度も何度も聞き返し、理解しようとしている。要するに、そうはいっても、極めて難解なのだ。

 しかし、これはいわゆる入門書ではないということは、この書物の価値を単純に失わせているのではなくて、逆に別の魅力を浮き上がらせている。この本の、哲学書としての第一級の魅力である。

対話編の魅力とリシールのフッサール、ハイデガー批判

 哲学書がどう書かれるべきか、というのは時代によって暗黙の了解が認められるけれども、本当はいつだって自由だ。プラトンは対話編を書いた。もちろんカントやヘーゲルのような重厚な書物もあるが、ニーチェニヒリズムルサンチマン永劫回帰などの概念が有名)はアフォリズムを書いた。ハイデガーにしたって、後年は対話編を書いている。これらはそれぞれに魅力があって、それぞれれっきとした哲学書だ。

 いわゆる重厚な論文調の哲学に対して、対話はその哲学者の別の魅力を浮かび上がらせる。この書物の魅力はーーその圧倒的な教養だけでなくーーリシールの「書き物と発言の調和にあふれた差異」、そして彼の発言の具体的なものへの投錨である。

 リシールはデリダやハイデガードイツ観念論フッサールを通過することで自らの哲学を確立してきた。当時の流行であったフランス現代思想は彼にとって受け入れがたいものであったが、かといって、フッサールの教義を真に受けていたわけではなかった。彼は、もちろん一定の評価を与えつつも、ほとんどの哲学者(哲学的思想)に批判的だったのである。現象学にこだわったのは、フッサール的精神の継承者としてフッサール現象学の乗り越え(鋳直し)を試みたからである。鋳直された現象学はもはやフッサールの現象学とは全く異なるものである。そこに彼独自の現象学的用語の意義がある。しかし、フッサール現象学のどこが気に食わなかったのだろうか。

 ここからが面白いところだ。フッサールの時間論に対してリシールはこういう。

反対に、自分がこうした状態を意識していないのなら、現在という時間の流動のなかに欠如した部分がある、ということになる。学生たちにを相手に、こんなことをよく喋ったものだよ。フッサールの考え方を採用するとしよう。そうすると、とてつもない集中力を動員しさえすれば、私は今朝地下鉄に乗ったということだけでなく、いくつもの駅で乗り降りした人々、そこから今に至る状態まで思い出せることになるぞ、とね。

96頁

 事態は逆なのだ。

講義に出席するため、君たちは地下鉄に乗ってくるだろう。したいことを何でも無為にしているはずだね。ということは、車両のなかの人たちのことなんて思い出せないはずだ。誰が乗ってきて、誰が降りていって、それから先のこともね。みんな消えて忘れられてゆく。死んでゆくんだ。覚えているのは、地下鉄に乗ったことだけ。ということは、時間には、完膚なきまでに消えてゆく何かがあるんだ、とね。

142頁

 フッサールの時間論が誤っているのは、その時間論が現象学的な方法論に照らし合わせてみるとおかしいというだけではない。流れゆく過去把持を伴った生き生きとした現在(時間流)という考え方は、現実のどこにも当てはまらないじゃないかというのである。僕らは、実際ほとんどのことを忘れていく。一体、それをどうやって理論に収めればいいのだろうか。

 ハイデガーに対する批判も根底にはそのような考えがある。リシールは存在論を毛嫌いしているのではない。そのハイデガーのいう存在論的な状態というのを実際どこにも見出せないということだ。

ハイデガーのレトリックというのは、要するにこういうことだ。つまり〈深淵なもの〉と〈悲劇的なもの〉のインフレ状態なんだ。まあ、こんなのはすべて想像の産物だね!私たちが日常で体験しているような経験とは必ずしもいえないし、普遍的にそうであるともいえない。

48頁

 『存在と時間』が想像の産物なのは、それが「体験」とか「経験」できないからだ。本来性なんてどこにいるのだろうか、仮にそういった状態に陥ったら、それは深淵と悲劇的なもののインフレ状態なんじゃないか、ということだ。

超えた先に:リシールの現象学と具体性

 しかし彼らを乗り越えた先に何があるのだろうか。彼らの理論はどこにも位置づけられないか、せいぜい狂気の中にしか位置づけられない。だからこそリシールは彼らとは異なった別の普遍的な現象学的基盤となるものを必要としていた。そうすることでこそ、単なる理論に真に具体性をまとわせることができるからである。

 これがこの書物を一層難解にしているところだ。時間というのは流れとしての時間ではない。これはフッサール的な現在がないということだ。それゆえ現在なき現前という時間化があり瞬間という時間化がある。彼の誇張的エポケーの後に残るのはこういった曖昧な現象だ。だからこそそれを表現するための彼独特の哲学用語(現象学的図式機能、空想、情動性、現象学的崇高、超越論的過去・未来、絶対的超越などなど)が必要だったわけである。しかしこれだけではその理論に具体性は宿らない。

 現象とはハイデガーやフッサールが考えていたよりもより曖昧なものだ。この曖昧なものこそ現象学的な確固たる基盤となりうるという発想の交錯にリシール現象学の難しさがある。このあいまいな現象に、たとえば思考をリシールは位置付ける。

思考が成熟する、といった事態を考えてみよう。君が何かについて研究しているとする。君は何かについて考えている。君の存在であったり、君の人生だったり。そのとき、君は何かを発見することになる。大抵の場合思いがけずにね。ということは、それはどこから出てきたのかわからないわけだ。・・・これこそ、何ものかが出来するということを、現象学的に確証している

152頁(強調筆者)

 ぼくらはこういったことをあまり基礎的なもの/ことだとは考えない。というのもよく分からないからだ。しかしリシールからすれば、これこそ現象学的な基礎の位置に立つ具体的なものだ。というののも思考はいつもそこにあるからだ。そういったものはいつも揺れめぎながら、生まれいづる何かを胚胎している。そして大抵の場合、それが言葉となるまえに消滅していく。それは確かに完全に、例えば椅子とか机のように示せるわけではない。それらのはかなさはそもそも現象学的記述の限界まで指し示している。

だから音楽というもは言語活動のひとつの形式であって、この形式がさまざまな空想-触発をつなぎ、何かを語るんだ。音楽に聴き入るなら、音楽というものは記述できるものではないし、その意味は文法言語で言葉にできるものではない。いってみれば、音楽「表象」しているものを夢想してしまうようになったらダメなんだ。・・・あらためて説明するけど、何があるのかといえば、想像ではなくて、魂の運動なんだ。この運動が言語活動としてのさまざまな空想ー触発を作り出し、中継してゆく。わかるだろう。音楽を理解しない人なんかに、現象学は理解できない。まあ、そういうひとは、フッサール現象学の教義面での上っ面にとどまったままなんだよ。自分だって、音楽について論じることができたらいいなあと思う。でも不幸なことに、自分はそれには不適格なものだ!なぜかって、音楽を理解していると思っていても、自分は緻密かつ詳細に音楽を語ることはできないのだからね。

203頁

 実際は音楽について論じることができるのに適格な者なんていないのだ。というのも音楽は言葉にできるものではないからだ。誰もが音楽についてはある意味で語れない。音楽を聞けばそこに言葉にならないものがあることを感じることができる。それは、リシールの言葉を借りれば、「魂の運動」なわけだ。これが音楽が語ってくれる何かである。それらを何らかの形で理解することはできる。しかし「緻密かつ詳細に」語ることはできない。何かが言語から完全に逃れさっていく。音楽は何かを語り、何かが逃れているという意味で、現象学的な基礎の具体性を指し示している。現象学的に基礎となるものは非常にあいまいではかないものだ。しかし、だからといってその具体性が消滅するわけではない。私たちはその具体性を生きているのである。

空想とは何なのだろうね。白状しないといけないけど、私の表現力にも限界があるんだ。私は空想というものを感じ取っている。でも、それでは不十分だ!そうだ、ひとついいことを思いついた。音楽はここでも格好の例となる。例えば、ヴィヴァルディの『四季』を聴いているとしよう。

128頁

 だからこそその具体性を他者に示すこともできる。現象学的な基礎となるものは、彼にとっては非常に具体的なものであった。というのもリシールはそれを感じていたからだ。しかしそれだけでは人に伝わらないだろう。自らの理論は一体正しいのだろうか。他者はそれを肯定してくれるのだろうか。それは分からない。できることは、今自分が感じていることをできる限りに、あらゆる角度から具体性を帯びさせて話すことだけである。

結局私たちは何について語っているのか。この問いに答えられないままでいると、私たちは切り縮められてしまう。・・・簡単にいえば、思考の倫理の定言命法に、これまで以上にしっかりとどまるべきなんだ。事象の性質の基底に関して、一貫性を備え、了解可能で、議論が可能なもの。これを作り出し、語ることを目指さねばならないんだ。語らねばならないんだ。どんな代償を払ってもね。

364頁

 これは勝手読みかもしれないが、「思考の倫理の定言命法」を、私としてはこう理解したいのだ。哲学は、思うに、個人的な営みだ。表面上の事柄は別として、基礎・基盤を語ろうとするとどうしても相手に通じなくなる。リシールが考えた現象学は、結局のところリシールの現象学でしかない。彼の理論が誰しもに通じるわけではないし、なんならほとんど人に通じないだろう。それなら「何について語っているのか」に答えられるのは何なのだろうか。「了解可能で、議論が可能なもの」とは何なのだろうか。ここに具体的なものへの投錨がある。つまり自分が何について語っているのかを位置づけることなのだ。いわゆる生きた現実の具体性というものがあって、リシールはそこに彼の理論を位置づけようとした。現象学的図式機能ではよくわからなくても、音楽と言われれば他者も具体的に考えることができる。それによって、リシール本心が現象学という理論を生きるだけでなく、わたしたちも間接的にそれを生きることができる。なるほど、この位置づけ方はおそらく人それぞれだ。音楽の例を出したからといってその人に確実に意味が伝わるわけでもない。そもそも彼の現象学的理論が絶対的に正しいわけでもない。しかし、位置づけようとしてみなければならない。自分が何を語っているのかについて、あらゆる努力を尽くして示してみようとしなければならない。それだけが議論というものを成立させるし、ひいては哲学そのものを理解させてくれることにもなるのだ。哲学には生きた具体性が必要なのである。

 思弁的な理論に具体性を帯びさせ具体性に理論を与えてやること、その調和をまとったこの書物を私はとても優れた哲学書としてみなさんにお勧めしたい。

参考文献

マルク・リシール『マルク・リシール現象学入門ーーサシャ・カールソンとの対話からーー』澤田哲生監訳、ナカニシヤ出版、2020年。

Marc Richir, L’écart et le rien. Conversations avec Sacha Carlson(Grenoble, Jérôme Million, coll.«Krisis»,2015)

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