『ライムライト』感想|あらすじ解説|内容考察|ケアする/される

『ライムライト』感想|あらすじ解説|内容考察|ケアする/される

概要

 『ライムライト』はチャールズ・チャップリンの1952年の作品。チャップリンといえば『モダン・タイムス』(1936年)や『独裁者』(1940年)が有名で、熱の籠もった台詞とユーモアあふれる作風が魅力的だ。

 1914年から映画監督としてのキャリアをつみ、1920年代にはすでに国際的な名声を得るに至っていたチャップリンは、30年代に映画監督として成熟期を迎えていた。ところが1940年代に入ると、共産主義への傾倒やスキャンダルによって徐々に人気を落としてしまう。

 そんな人気の右肩下がりのタイミングで発表されたのが『ライムライト』だ。この作品はいわくつきで、チャップリンが『ライムライト』の上映会のためロンドンへと渡航している間に、共産主義への傾倒を理由にアメリカの再入国が禁じられてしまう。チャップリンはこれ以降一度もアメリカの地を踏まず、スイスに定住することになる。

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登場人物

カルヴェロ(チャールズ・チャップリン):イギリス一と言われた道化師。現在の人気は衰えている。テリーが自殺しようとしているところを助け、以後テリーの精神復調のために尽力する。

テレーザ・アンブローズ(クレア・ブルーム):愛称はテリー。バレエの踊り子。自殺をはかろうとしたところをカルヴェロに助けられる。

ネヴィル(シドニー・チャップリン):作曲家。貧乏の時にテリーに助けてもらう。のちに再会した時にテリーに告白をする。

あらすじ

 舞台は1914年のロンドン。イギリス一と言われた道化師のカルヴェロは、人気の落ち目であり酒に酔っ払っていた。家に帰るとガズの匂いに気づき、自殺しようとしていたテリーを救出する。大家がテリーを追い出そうとしたので、カルヴェロは自室で面倒をみることにする。

 目を覚ましたテリーは事情を説明する。テリーはバレリーナとして働いていたのだが、リューマチで動けなくなったのだった。カルヴェロは献身的にテリーを介護し、元気付けるために自分の身の上について語る。カルヴェロもイギリス随一の道化師と言われたのは過去の話で、いまは舞台に上がるのが怖くなりお酒におぼれて心臓を悪くしていた。

 突然、カルヴェロに仕事の依頼がはいる。張り切るカルヴェロであったが、相手の対応が悪く、さらには過去の栄光にすがるなと言われてしまう。意気消沈してアパートに帰ると、慰めるためにテリーが身の上話を始める。姉が娼婦になってまで自分のために金を稼いでくれたこと、文房具屋で働いていたとき好きになったアメリカの青年ネヴィルのこと。カルヴェロは、テリーとネヴィルはもう一度会えると確信し、テリーのリハヴィリを手伝う。

 数ヶ月後、カルヴェロは舞台に失敗し絶望する。そんなカルヴェロをテリーは励まし、その勢いで歩けるようになる。再び動けるようになったテリーは、バレエの世界に戻り大成功を収め、さらにネヴィルと再会する。カルヴェロはテリーの成功に素直に喜べず、テリーの結婚申し入れも本気にしない。ネヴィルはテリーに愛の告白をするも、テリーはカルヴェロを愛していると告げる。しかし、失意のどん底にいたカルヴェロは置き手紙を残して放浪の旅に出る。

 大道芸人として生活するカルヴェロは、偶然テリーに再会する。 人気バレリーナになっていたテリーは、カルヴェロがもう一度舞台にたてるよう画策する。カルヴェロが舞台で失敗しないように、観客にサクラをいれて笑うタイミングなどを打ち合わせする。

 舞台は大成功をおさめ拍手喝采をあびるも、カルヴェロは勢い余って舞台から転落してしまう。カルヴェロは満足のなか、ライムライトを浴びて踊るテリーの姿を見ながら息を引取るのだった。

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解説

ケアする・ケアされる

 カルヴェロは道化師でイギリス一と言われていたがそれは過去の話。お酒で足が覚束なく普通に歩くことすらできない。このような状態のカルヴェロは、まず間違いなく当時のチャップリン自身を表している。カルヴェロ同様、イギリス一の喜劇家であったチャップリンの人気はガタついていた。カルヴェロをチャップリンが演じているだけではない、カルヴェロ=チャップリンなのである。だからカルヴェロの一言一言は妙に重い。

 失意のどん底にいるカルヴェロ=チャップリンを立ち直らせるのは誰か。ここが実に難しい。カルヴェロは過去の栄光にすがりながらも情けを拒むひねくれ屋さんだからだ。だからカルヴェロを立ち直らせるのは簡単には起こらない。

 前半の重要なポイントはケア・介護だ。偶然介護をすることになるサリーは、足が動かないためカルヴェロと同様に人生に絶望している。つまりカルヴェロとサリーは本来ならどちらも介護が必要な立場の人間なのだ。ところが目の前に介護を必要としている人がいると、自分は介護をする側に回らなくてはならない。カルヴェロはサリーを想って大袈裟に励ます。面白いのはサリーを励ましているはずの言葉が、自分自身に跳ね返ってくるところだ。現実を知って酒に溺れていたカルヴェロはサリーを励ますことで逆に元気になっていく。

 同じことがサリーがカルヴェロを鼓舞するときにも起こる。舞台に失敗したカルヴェロを、まるでかつて自分を勇気付けたカルヴェロが乗り移ったかのようにサリーが励ますとき、彼女は自分自身をも励ましているのだ。おかげで精神的な理由で動かなかったサリーの足は動くことになる。ここに介護・ケアの励ましているようで励まされているという相互性が現れている。

考察・感想

憐みではなく笑いを求めて

 サリーは哀れみを恋と勘違いする。サリーは昔にネヴィルという貧乏な音楽家に恋をしていた。カルヴェロにサリーが告白するように、それは一種の憐みの感情だった。ネヴィルにお釣りや楽譜を余分に渡したくなる憐みの気持ちと恋が混同してしまうのである(だからといって偽物だということにはならないと思うのだけれど)。

 ダンサーとしていた一躍有名になったサリーは、カルヴェロに恋をし復活に失敗した彼を支えようとする。しかしカルヴェロに対するこの恋の感情は実は憐みなのではないか、とネヴィルは指摘する。本当に愛しているのだ、と答えるサリーはしかし自分に言い聞かしているようにもみえる。

 問題は前半部にあったケアの相互性がもはや成り立ちえないことだ。名声としても演技としても立場が上であるサリーの献身は、乞食にお金を恵んであげるといったタイプの憐みの感情と大差がない(とカルヴェロは感じる)。だからカルヴェロはサリーに「君でさえ遠く感じる」と、孤独であることを告白するのである。

 結局カルヴェロを救うのは、自分の芸が舞台上で観客にウケる、これしかない。だから最後の舞台で、命を縮めることを承知でお酒を飲み、命を燃やし尽くすのである。観客のアンコールのなか息を引き取きとるカルヴェロは、まさに監督であるチャップリン自身の理想の最後のようである。

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