二次創作の真骨頂——ガイ・リッチー『シャーロック・ホームズ』

二次創作の真骨頂——ガイ・リッチー『シャーロック・ホームズ』

概要

 『シャーロック・ホームズ』は2009年に公開された英米合作の映画。監督はガイ・リッチー。コナン・ドイルの同名小説を基にしている。主演はロバート・ダウニー・Jrとジュード・ロウ。

 アカデミー賞・作曲賞、美術賞にノミネート。続編は『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』。

 ワトソン役のジュード・ロウは、スピルバーグの『A.I.』やウディ・アレンの『レイニー・デイ・イン・ニューヨーク』にも出演している。

登場人物

シャーロック・ホームズ(ロバート・ダウニー・Jr):私立探偵。頭脳明晰。武術にも嗜みがある。事件の捜査がないと薬物で興奮を担保している。

ジョン・ワトソン(ジュード・ロウ):外科医。第二次アフガン戦争で軍医として従軍。メアリーとの結婚を控えてホームズと距離を置こうとするが、捜査での興奮が忘れられず、ホームズと捜査に邁進してしまう。

ブラックウッド卿(マーク・ストロング): サー・トマスの息子で、第四修道会をのっとり世界征服を企む宗教者。科学技術を応用することで、あたかも黒魔術があるように見せかけて他人を欺く。

アイリーン・アドラー (レイチェル・マクアダムス):ホームズを二度も出し抜き、彼から一目置かれる犯罪者。モリアーティに雇われて行動しているが、同時に彼を恐れている。

メアリー・モースタン(ケリー・ライリー):ワトスンの婚約者。

あらすじ

 舞台は1890年のロンドン。探偵のシャーロック・ホームズと相棒のジョン・ワトソンは、ブラックウッド卿が行う女性を生贄にする儀式を阻止すべく調査をしていた。

 間一髪でブラックウッド卿を逮捕、刑務所でホームズに世界が変化するなどと予言めいたことを発言後、処刑されワトソンによって死亡が確認される。

 三日後、宿敵アイリーンにリオドンという名の人物を捜索するよう依頼される。そして墓に埋められていたはずのブラックウッド卿が復活し、墓が破壊され彼が歩いていたところを目撃される。

 婚約相手のメアリーに会いに行きたいワトソンを上手くやりこめたホームズは、リオドンの家を訪れる。そこは実験の跡と進んだ科学技術を用いた道具が置かれていた。そこに敵が現れるも撃退する。

 ホームズは第四修道会のメンバーに会い、ブラックウッドを止めるよう依頼される。ホームズは依頼主の一人首席判事のサー・トマスがブラックウッドの父親であることを見抜き、命の危険に注意せよと忠告して依頼を断る。

 依頼主であったサー・トマスとスタンディッシュは、ブラックウッドによって殺害され、修道会でのブラックウッドの権力が強大になる。ブラックウッドはアイリーンを囮にして、ホームズたちを爆弾で殺害しようとする。なんとか生き延びた三人だったが、ブラックウッドの手下で内務大臣のカワード卿によって、ホームズの逮捕状が出される。

 ホームズは数々の証拠からブラックウッドの次なる標的は議会であると推測する。ホームズはカワードを騙し推測を裏付ける証言を得ると、議会の地下に向かう。そこには遠隔操作で毒物を撒き散らす装置と、それを守るブラックウッドの手下がいた。

 隙をついてアイリーンは毒物を盗み、それに気がついたブラックウッドとホームズの、三つ巴の戦いが工事中の橋の上で始まる。これまでの事件のトリックを暴いたホームズは、戦闘にも勝利し、ブラックウッドは鎖で首から吊るされる。

 アイリーンは依頼主がモリアーティであったことを告げる。モリアーティの目的は、毒物拡散のために準備された遠隔装置だった。新たな技術と凶悪な敵の到来を感じるホームズであった。

解説

キャラクターが立つ『シャーロック』の二次創作的想像力の真骨頂

 古今東西老若男女に愛され幾度となく映像化されてきたコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』。そんな大人気探偵小説の最新の映画化が、監督ガイ・リッチー、主演はロバート・ダウニー・Jrとジュード・ロウの『シャーロック・ホームズ』である。

 一読するとわかるように『シャーロック・ホームズ』はキャラクターが立った小説である。私立探偵のホームズは言うまでもなく、平凡に見えて実は多彩な助手で相棒のワトソン、ホームズと同等な頭脳と凶悪な悪意をもつ最大の敵モリアーティ、ホームズが唯一認める敵アイリーン・アドラー、能力がないが愛されているレストレード警部などなど。事件の内容は知らなくても、これらの個性豊かなキャラクターの存在を知っている人は多いだろう。あまりにキャラクターが立ちすぎて、ホームズは存在しているのかとか、ベーカー街221Bはどこにあるのか(もちろん架空の家である)、といった手紙が作者のコナン・ドイルに送られたという逸話が存在するくらいだ。

 魅力的なキャラクターが物語を作り上げる『シャーロック・ホームズ』を基にした本作は、本来交わることのなかったキャラクターたちを勢揃いさせて作られた、ファンのファンによるファンのための最強の『シャーロック・ホームズ』になっている。モリアーティを黒幕にして、アイリーン・アドラーとの対決および共闘、妻メアリーとホームズによるワトソンの取り合い(ホームズの嫉妬というほうが正しいか)。さらにシャーロックとワトソンの肉弾戦でもかなり強く、探偵の要素にアクション加わり、もはや欠点を指摘することの方が難しい。次作で明かされるのだが、モリアーティも戦闘能力がとても高く、ホームズとモリアーティは「影の戦い」という特殊能力を保持している。唯一人気があるのに登場しないのは、兄のマイクロフトくらいで、ここまで人気キャラを登場させてもらえればそれだけで大満足だ。そしてキャラクターの登場による快楽だけでなく、陰謀によるダナミックさ、推理の斬新さ、ストーリの緻密さと申し分ない。何をとっても誰にとっても面白い作りになっている。

 これはいわば二次創作であり、原作を改変した映像化には否定的な方もいるかもしれない。実際映像化された数多くの「ホームズ」の誰が最も原作に近いか、という順位付けは常に行われてきた。原作に忠実に描くことが作品の価値につながるのは、原作の映像化においては宿命とも言える。とはいえ、原作の世界観を保ちながら、さらに面白いストーリを組み立てるのも、一つの楽しみでもある。ドイルの『シャーロック・ホームズ』は出版後瞬く間に世界各国に、その子供を作ってきた。探偵小説の、相棒の、宿敵の、そのイメージの多くが少なからず『シャーロック・ホームズ』に影響されてきた。『シャーロック・ホームズ』の二次創作は、原作への愛の上に成り立っている。

考察・感想

忘れるとは賢さではない、子供を救え

 個人的な、もしかしたら一般的な、昔話をさせていただきたい。私がコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』を読んだのは中学生の時だった。あまりの面白さにすぐさま全巻購入し、ありったけの速さで読破したのを覚えている。特に好きだったのが、ホームズとワトソンの出会いの場面である。出会った当初、ワトソンはホームズの局所的に抜きんでた能力と、誰でも知っているような常識的な知識の一部の欠落に驚いたのだった。そう、ホームズは地動説を知らなかったのだ。19世紀を生きる文明人が、そしてある分野では類稀なる才能と優れた洞察力を有するホームズが、地ではなく天が動いていると信じていたのである。驚愕するワトソンにホームズは冷静に応答する。

いいかい、知識が一つ増えるたびに、前に覚えたものを忘れることになるのだ。それゆえに肝要なのは、有用なものを押し出してしまうような、無駄な情報を持たないことだ。

コナン・ドイル『緋のエチュード』大久保ゆう訳、青空文庫

 このセリフが当時の多感な中学生に、あまりにかっこよく響いてしまった。これが致命的に良くなかった。記憶できる容量は有限だ。ホームズのような有能な探偵になるためには、捜査にとって無駄な知識は地動説だろうと忘れるべきだ。かくして私の記憶力は豆腐のようにプヨプヨとしたものになってしまったのである。何を思ったか、ありとあらゆることを忘れるよう努めた。肝心なことは、「捜査」のカッコに入る自分なりのものを見つけることだったのに、それを怠って忘れまくった。「〇〇」の中身がないのだから、覚えるべきものも無かった。人の話はすぐ忘れた。英単語が覚えられず、高校生になっても赤点を取り続けた。私に悲壮感はなかった。ホームズの教えを忠実に守っていたからだ。それでいてホームズの教えを徹底できないばかりに、彼の教えを忘れることはなかった。私は何かを覚え、中途半端に忘れる、単に記憶力の弱い人になってしまったのである。

 最近になって、この記憶力の弱さが気になり始めた。読書をしても、映画を観ても、勉強をしても、すぐ忘れてしまうからだ。それに出典を忘れてしまったのだが、インドのヒンドゥー教において賢さは「記憶力」だということらしい。ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」の諳誦が重要視され、覚えられるかが賢さ、ひいては階級とも密接に関わってくるというのである。

 私は人類史上最も賢いと信じていたホームズを目指し、彼の言葉を信じたばっかりに、賢さを失っていたのである。やんぬるかな。仕方がないので、最近はホームズの教えを脇に置いて、記憶力を高めようと努力している。

 この話は決して個人的なものではないと確信している。『緋色の研究』の出版は1886年。これまでに多くの人がこの本を愛読してきた。そしてこの一説に感銘を受けて、実践してきた人は少なからずいるはずだ。ここで得られた教訓はただ一つ、『シャーロック・ホームズ』は子供が読むべき本ではない、ということだ。

 かの有名な中国の小説家である魯迅は、代表作『狂人日記』で、狂人になってしまった大人たちを諦める代わりに、まだ狂人ではない子供たちを救うべきだ、と説いた。「人を食わずにいる子供は、あるいはいるかもしれない。救え。子供を救え」。私が言いたいのは、これと同様のことである。

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